洲崎神社(すのさきじんじゃ)は千葉県館山市洲崎にある御手洗山中腹に鎮座する神社です。式内社で、江戸時代に安房国一宮とされ、旧社格は県社。
洲崎神社は地理的に海上交通の要所にあり、1940-41年までは沖を通る船に奉賽を収めさせる風習があったことなど、面白いポジションにあった神社です。
社殿に至る長い階段(後述)を登ると、晴れていれば相模湾の先に三浦半島から伊豆半島まで見え、その間に富士山が望めるらしいです。古来の航海において、御手洗山や当社の境内は房総半島をめぐる船にとっては非常に重要な目印であり、ゆえに、ここに一宮が設置されていると考えられます。
歴史
当社には、役小角(えんのおづぬ/おづの)にまつわる伝承が多くあります。役小角は “修験道” の開祖であり、例えば社伝によると717年に大蛇が災いして大地が変動して当社境内の鐘ヶ池が埋まった際に、役小角が7日7夜を通して祈祷して明神のご神託により大蛇を退治した伝承や、役小角が海上安全のために当社の浜鳥居前(後述)と横須賀の安房口神社に御神石を1つずつ置いて祈願した等の興味深い伝承が伝わっています。
ちなみに神石とはこのよう感じらしいですが、管理人一行は見逃してしまいました。
歴史書としては、807年に書かれた神道の書物である『古語拾遺(ごごしゅうい)』には、神武天皇の名を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国(現在の徳島県)に至り開拓し、さらに土地を求めて阿波忌部氏を率いて房総半島にある安房国に上陸したとされています。これはまさに安房神社の起源と重複しており、こちらが女体社、安房神社が男体社という関係性にあったことが見て取れます。
※女体社・男体社に関するちゃんおれメモ
洲崎神社の社伝にあたる『洲崎大明神由緒旧記』によれば、天富命が祖先にあたる天比理乃咩命が持っていた鏡をご神体として美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが洲崎神社の創始とされています。
平安時代の927年に編纂された『延喜式」には安房国安房郡に「后神天比理乃咩命神社 大元名洲神」と記載されており、天比理乃咩命神社 は大社として格式付けられています。なお洲崎神社は天比理乃咩命神社の系譜を継いでいるとしていますが、もう1社同じエリアにある洲宮神社も同じ起源を主張しています。
こうした神社は論社(ろんしゃ)と呼ばれており、これはどちらが正当性のある本物の神社(主張している神社としての)であるかで論争がある神社を指します。例えば武蔵国一宮では氷川神社(埼玉県大宮)と小野神社が、下野国一宮では日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社が、それぞれ争っていることは当ブログでも言及していますし、今後の研究課題として非常に重要です。
1180年8月に源頼朝が石橋山の合戦(リンク)に敗れて海路で安房国へ逃れた際に、頼朝はここで上総介(かずさのすけ)及び千葉介(ちばのすけ)に支援を要請し、洲崎神社へ参拝して無事帰還できた場合には田を寄進するとの請願書を奉じているという記録もあります。
史実としては、この後源氏が復活して鎌倉幕府を開いていくことになります。ここにご神徳を見出したのか、1182年には頼朝の妻である北条政子が安産祈願で、安房国の豪族が代わりに洲崎神社へ派遣されて参拝した記録が残るなど、関東武家の崇敬を受けた史実があります。
”洲崎神社”という社名がそのまま史実として現れるのは、江戸時代に老中松平定信が奉納したとされる扁額になるため、それより古い起源を遡って証明するのは難しいとされています。
明治に入り、1872年には神祇(リンク)を管轄する教部省は洲宮神社を式内社としたが、1873年にこの決定を覆して洲崎神社を式内社とし、同年近代社格制度で県社とされています。
社殿・宝物等
洲崎神社の全体像はこんな感じです。
大きく、随神門という門の周辺に手水舎や御守授与所、駐車場があり、道路を挟んだ向かい側に浜鳥居という鳥居と御神石、随身門の先に長い急な階段と本殿という構造です。
駐車場に車を止めて本殿の方に歩いていくと、随身門の先に登るのが大変そうな長い階段が見えてきます。
この辺りにあるのが、まずは手水舎です。
その周辺には、子宝蘇鉄(ソテツ)です。なんと樹齢200年を超え、
この写真のようにたくさんの子供が付いている様子から名付けられているそうです。後述しますが、ご祭神が女神であることも”子”に関するご利益を連想させます。
この神社には、まさに浜辺の神社らしくこのような貝殻や、貝殻の詰まった岩、そして砂利の中にも無数の貝殻が混じっているなど、海を感じさせます。
手水舎をもう少し先に進むと随神門が見えてきます。
随身門は近くから見るとこんな感じです。
なかなか珍しい色使いの狛犬(獅子に近い)がこの門の先の聖域を守っているようです。
随身門を抜けると社殿へ向けて150段の階段が続きます。高所恐怖症の人と体力に不安がある人にとっては少し厳しめの設計で、管理人の妻はとても苦しそうにして登っていました。
この階段をのぼるとついに本殿・拝殿に至ります。
拝殿は入母屋造(いりおもやづくり)で、後ろの本殿は三間社流造(ながれづくり)で、社伝によると1673-81年の造営とされています。江戸時代中期以降に大規模修繕が行われた形跡があるようです。
本殿まで登ってきた階段から下を見下ろすとこんな感じです。写真は曇っていますが、晴れていれば伊豆半島まで見えて、とてもきれいな海と山のコントラストが楽しめる、写真スポットしても人気のようです。
が、高所恐怖症の人はこの急峻な階段を降りるときがとても怖いらしいです。
本殿周辺には、このようにソテツが生えていたり、海辺の神社らしさが至るところにあります。
管理人たちは行きませんでしたが(天気のせいで期待できなかったため)本殿からは富士山遥拝所なる景色のきれいな場所へも向かえるようです。
ほかにも本殿からは長宮という海や山を司る神々をお祭りする神社もあります。
洲崎神社本殿から道路を挟んで反対側の海方向に100mほど進むと鳥居があります。
※道幅が狭いので神社側の駐車場に車を停めたまま、歩いて行かれることをおすすめします
これは浜鳥居と言われ、例祭などではここで神事が行われることがあります。
浜鳥居外には神石と呼ばれる石があります。これは竜宮城から洲崎大明神に奉納された2つの石の1つであるとされ、もう一方は対岸の三浦半島にある安房口神社に祀られています。
ちなみに当社のものは目が割けているので吽形(うんぎょう)、安房口神社のものは口を開いているので阿形(あぎょう)とされており、この2つの石が狛犬のように東京湾の入り口を守っていると伝えられています。
浜鳥居のあるエリアは海を見渡せる、とても開けたエリアとなっており、ここに行くだけでも気分がスッキリとします。
またここには鐘が設置してあり、お子さん連れの場合は喜ぶこと間違いなしです。
ご利益
・航海安全
・リベンジ/再起のちから(源頼朝のストーリーに基づく)
※ ”歴史” にて記載しましたが、源頼朝の逸話に基づくご利益です。
→平清盛との戦いに石橋山の合戦で敗れた源頼朝は海を渡り安房国に逃亡。そのときに身の回りにいたのは家臣がわずか数人。周りの人間は誰もが源氏の再興をあきらめていた。そんなときに頼朝が再起をかけて祈願に訪れたのが洲崎神社で、その後頼朝は再起を果たし平家を滅ぼし、鎌倉幕府を打ち立てる。
御朱印
神職は常駐していないため御朱印をもらう際には注意が必要です。管理人は事前に連絡していったのでもらえましたが、通常は書いてあるものをいただく形のようです。
山門を入って左側に御朱印ケースがあるので、そこから御朱印半紙をもらって自分で御朱印状に貼る形となっています。
ちゃんおれメモ
・古いながらも落ち着く、海辺を感じさせる神社だった。山もあり、自然を感じられる。
・ご朱印は参拝前が良い(時間がかかるのと夏場は蚊が多めなので待ってると死ぬ。ガオ)
・階段が多けど景色の綺麗な神社。貝の混ざった砂利が海辺の神社らしく雰囲気が良かった。ガオ
・この日は雨だったから、僕は仕方なくかっぱを着て、自分で歩かずに階段を登った。本当だったら一気に登れるんだ。ガオ
コメント