安房国一宮 安房神社(あわじんじゃ)

安房神社(あわじんじゃ)は安房地方(千葉県の房総半島最南端部、館山市)の山麓に鎮座する神社で、その由緒から日本三大金運神社とも呼ばれる神社です。安房国一宮として式内社(名神大社)、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁に別表神社として定められる由緒ある神社です。

境内にはこのような大きな木や岩がたくさん配置してあり、厳かで力強い雰囲気を感じる神社でした。

古代に神郡(地域全体を特定の神社の神域と定められた地域)とされた数少ない神社の1つとして有名です。『延喜式』によると、全国にある神郡はこの安房郡含め、伊勢国度会郡(わたらいぐん)、伊勢国気多郡、下総国香取郡、常陸国鹿島郡、出雲阿国意宇郡、紀伊国名草郡、筑前国宗像郡の計8つであり、これらは八神郡と総称されていたそうです。

『延喜式』には安房神社が記載されており、続けて式内大社「后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)」の記載があります。妻にあたる神として現在の洲崎神社が女体社として位置していたことを示していると思われます。

この点で、武蔵国や下野国に見られるような”一宮論争”ではなく、むしろ両社がセットで(両性を合わせて)このエリアの一宮という位置づけという関係性にありそうです。

目次

歴史

創建は2680年以上も前、紀元前の660年頃とされ、日本史的には縄文時代末期〜弥生時代初期にあたる時期です。現在の場所に移されたのは717年です。

社伝によると、天富命(下の宮の御祭神)が現在の徳島県にあたる阿波地方から安房の地に至って開拓した後に、祖神である(祖父にあたる)天太玉命と(祖母の)天比理刀咩命を祀ったことが創祀であるとされています。

阿波地方から渡ってきたのが忌部氏(いんべし)という豪族であり、段々と神格化されていったのが起源のようです。安房神社の神職もかつては安房忌部の正統を称する岡島氏が担っていたことや、安房地方の洲崎神社、洲宮神社、布良崎神社、下立松原神社などで同様の忌部氏による開拓伝承が残っていることからも、忌部氏がこのエリアに強い影響力を持っていたことは確実なようです。

なお、忌部氏は古代において天皇の食料調達(特にアワビやはまぐり)にあたる中心的一族であったとされており、忌部氏の権力下にある安房地方の重要性は高いものでした。このあたりは、冒頭に記載したように神郡とされ敬意と合致しています。

中世以降一宮に位置づけられ、明治4年 (1871年) 5月には近代社格制度における最高位である官幣大社になり、戦後は神社本庁の別表神社となっています。

御祭神

主祭神の天太玉命(あめのふとだまのみこと)は忌部氏の祖神で、”上の宮(=本殿)”として祭祀されています。天太玉命は天岩戸神話で天照大神が岩窟にこもってしまったときに、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)と共に祭祀を行った神です。奥様にあたる天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)と共に本殿に祀られています。

天岩戸神話を振り返っておくと、天照大神が須佐男命の乱暴さに失望して洞窟の中に隠れて出てこなくなった(太陽神である天照大神が隠れることはすべての崩壊を示唆)ことで、いろいろな神々が工夫を凝らして解決したという神話です。天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が面白い踊りを踊って天照大神を誘い出し、ちょっと顔を出した天照大神を強い力で引っ張り出した天手力男命(あめのたぢからおのみこと)などが有名です。

安房神社の御祭神である天太玉命は、天照大神を岩窟から出すために、占いをしたり、榊に勾玉や布をつけて振り回したり、鏡を作ったり、天照大神がいかに偉大で重要な存在であるかを説得した神様です。天岩戸の前で棒に布をたくさんつけたものを作って踊りに使うなど、色々な試行錯誤をして太陽神の復活に貢献した神であり、「ものを生み出す力をもつ」クリエイティビティを司る神ということになります。

また、天太玉命は豊かな土地を求めて阿波から忌部氏と共に海を渡り房総半島に至り、ここに祖先を祀ったことが安房神社の起源になった経緯から、開拓の神とされています。こうして、未開の地を切り開いてきた経緯から、開拓の神は「これまでと異なる、新しい縁を結ぶ神」とされており、参拝者がこうしたタイミングにある場合は下の宮も忘れずに参拝することで自分の気持ちを高めることができるでしょう。

ちなみに、このときに作られた縄が注連縄(しめなわ)、そして榊と布が玉串(たまぐし)の起源、そして御神体となる鏡の起源であるとされており、現在の日本にもかなり影響を残しています。

社殿・宝物等

案内図の通りですが、安房神社にはたくさんの建物、見どころがあります。

駐車場のすぐ横に真っ白な神明鳥居があります。

ここから桜並木の参道を進みます。

50mほどで右側に神池が現れます。

この池を右折すると下の宮へ、直進すると上の宮へ繋がります。

ここをまっすぐ行くと次のような鳥居が見えてきて本殿の方向に進みます。

更に進むと手水舎が見えてきます。

境内は木が生い茂っていつつも、日の光がとてもきれいに入るように管理されていて非常に気持ちの良い、清々しい空間となっています。

この噴火の跡のような形状のエリアは少し気になりましたが、次回訪問時に神社の方に聞いてみようと思います。

次の写真奥に見えるのが本宮です。

本宮は上の宮と呼ばれ、境内の摂社は下の宮と呼ばれており、この呼び方は伊勢神宮の内宮・外宮の表現にならったとする説があるようです。

現在の姿の本殿は1881年(明治14年)造営。神明造、屋根は檜皮葺であり、2009年に大改修が行われています。本殿前の拝殿は1977年のもので、鉄筋コンクリートによる神明造です。

横から見るとこんな感じです。写真だと伝わりづらいかもしれませんが、とても力強い雰囲気を感じる社殿でした。

向かって左横から
向かって右横から
向かって右横から

本殿左横からもう少し進むとご神水?をいただける小さな洞窟もあります。

私達が訪問した際は落石が多いとのことで立ち入り禁止になっていました。

下の宮には天太玉命の孫にあたる天富命(あめのとみのみこと)と兄弟の天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られています。

横から見た下宮の拝殿、本殿は

あづち茶屋というお店の裏手に「安房神社洞窟遺跡」という1932年に行われた井戸の掘削工事で見つかった海食洞窟の遺跡があります。

全長22メートル、幅3.5メートルの大きさで、人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土たそうで、この場所が古代における祭事の中心地だったことを示しています。

これら人骨は移動され、忌部塚として二の鳥居前の階段手前を東に向かった位置に存在し、忌部塚祭が毎年7月10日に神事として執り行われているそうです。

祭事

多くの祭事が行われているが、面白いのは。。。

置炭神事(おきずみしんじ):1月14日の夕方に門松で起こした日でお粥を炊いて、燃え残った松材12本を取り出して見比べ、燃え具合によりその年の天候を占うもの。

粥占神事(かゆうらしんじ):置炭神事の際に粥の中にすのこのように編んだ葦筒12本を沈めておき、翌朝の15日朝に筒を取り出して割り、筒の中への粥の入り具合や色つやでその年の作物の豊凶を占うもの。

御朱印・ご利益

御祭神の説明でも出てきたとおり、物を生み出す力や、開拓する力を持つ神々が祀られており、現代的に言えば、「仕事や物事に行き詰まったとき」や、「新たな一歩を踏み出したい」、「現状打破したい」、といったタイミングで何かを生み出す、切り開くきっかけを与えてくれる神社なように感じました。

実際著者自身も大きな仕事やプロジェクト、転職の前など勝負だと思うタイミングでお参りして力をもらった、というよりも自分の決意の気持ちを固めさせてもらったという神社です。

また天岩戸で天太玉命作の注連縄の由来になった縄の伝説(神域と一般領域を分ける注連縄→神域を守る力があると解釈)から、悪霊、厄災を防ぐ力と解釈され、天太玉命は災難除けや厄除けの神としても有名です。

ということで、ご利益をまとめておくと

①モノを生み出す力(クリエイティビティ)や金運
→技術を活用すればお金につながることから、金運アップの力も

②開拓・新しいスタート
→新しい環境で物事を切り開いていく粘り強さ、集中力、チャレンジ精神など

③厄除け

ちゃんおれメモ

この神社は鰹木が拝殿にもある。神社の人に聞いてみると、鰹木はおもりの役割も果たしているとのこと。質問しても丁寧に答えてもらえる雰囲気の良い神社だった。ガオ

木が多くすっきりとかつ神威が感じられる神社。洞窟や大きな岩、大きな木々もあり、見どころ多め。

全体に砂利が敷いてあり土のところもなく、歩きやすい。雨宿りできるレベルの木もあり、雨でもお参りしやすい。

夏にも寒い時期にも行ったけど、なんとなく夏のほうが清々しさが感じられてよかった気がする。ガオ

房総に来たら、やっぱり海の幸。地魚いっぱい。肉食の僕でもおいしく頂いたんだ。ガオ

参考:

安房神社公式ウェブサイト

あづち茶屋(ほっこりできるお茶屋さん)

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