武蔵国一宮/三宮 (男体社) 氷川神社(ひかわじんじゃ)

昔の国の一番格式が高い神社である一宮に、論争がある、つまり2つ以上一宮を称する神社があることを始めに知ったのは、武蔵国一宮についてでした。聖蹟桜ヶ丘の小野神社と大宮の氷川神社は武蔵国一宮をともに主張しています。氷川女體神社も一宮を称していますが、2社は別の神社であり、氷川女體神社の記事でも触れたように、同じさいたま市にあり、氷川神社が祭神を須佐之男命(すさのおのみこと)、氷川女體神社がその妻である奇稲田姫(くしなだひめ)であることから、氷川神社が男体社、氷川女體神社が女体社とされています。この点で、図式としては小野神社vs氷川神社(男体社+女体社)となります。

今回の記事の最大の論点は、一宮論争、つまり、どちらが首都東京を含む武蔵国一宮なのか。これを複雑にしているのは小野神社が一宮としてはかなり規模が小さいものとなり、社務所には神主が常駐していないことも一因です。(論争に関しては後述)

氷川神社は埼玉県さいたま市大宮にある神社で、式内社(名神大社)、武蔵国一宮または三宮、かつ勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社です。宮中の四方拝で遥拝される一社であり、非常に格式高い神社。埼玉・東京近辺に約280社ある氷川神社の総本社とされており、他と区別するために大宮氷川神社とも呼ばれています。

景行天皇の皇子である日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人のお教えに従って当社に詣でたところ立てるようになったという伝説が残されており、ここからこの地域を足立と称するようになったとされています。

氷川神社はほぼ関東地方に根ざした神社であり、おそらく関西や西日本の人々にはピンとこない神社と思われます。特に埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心に、氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布しており、その総本社が当社です。

実際に大宮の地名も、この地を”大いなる宮居(みやい)”と称えたことに由来するとされている由緒正しい神社です。初詣では約200万人が参拝し、全国でも10位以内です。

目次

歴史

社伝によれば氷川神社の創建は孝昭天皇3年4月(およそ2400年前)です。『国造本紀』によると、无邪志(むざし:後に武蔵国となる地域を指す)の初代国造であった兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として当社を奉崇したとされます。ゆえ、御祭神は出雲系であり、社名も神社付近にあった荒ぶる川である荒川を、ヤマタノオロチをシンボルとして出雲平野を流れる斐伊川に見立て、氷川と名付けたと伝えられています。

平安時代前期に編纂された『日本三代実録』に、武蔵国氷川神の名で神階授与の記載があります。また、平安中期の『延喜式神名帳』には”武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗”と記載され、名神大社(古来より霊験あらたかとされる有名な神社)とされています。しかし、一宮ということを証明する文献に乏しく、後述のとおり延喜式で明神大社とされながらも、一宮をめぐっては小野神社と論争があります。実際、鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』には、現在の東京都多摩市に所在する小野神社(延喜式では小社)に関して、”多磨群吉富に一宮”の記述があり、平安時代のうちにすでに社格の逆転があった?と考えられます。加えて、武蔵国総社である東京都府中市の大國魂神社(六所宮)では、南北朝時代編纂された『神道集』に基づき、公式に一宮を小野神社、三宮を氷川神社としています。現在でも当社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷に、氷川神社の神官が三宮として参っているそうです。

江戸時代初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたものの、この地を統治していた関東郡司伊奈忠治が参道を街道とすることは畏れ多いとする宿の意見を受け、1628年に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家、およそ40軒を新設街道沿いに移転、これが現在の大宮の町並みのベースとなっているようです。

天皇とも結びつきの強い神社であり、四方拝にて遥拝される一社です。明治元年には東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定め、入都10日目には大宮に行幸し、その後関東の神社で最初に親祭を行っています。これ以降、例祭には勅使が送られ、宮内庁の楽師による歌舞が奉納されるなど、結びつきが強く、実際氷川神社の参道にも上のような看板が立っています。昭和天皇も皇太子時代含め3回、先の天皇である明仁上皇も皇太子時代含め3回の親拝をされています。

御祭神

神社略記によれば、祭神は下記の3柱です。

・須佐之男命(すさのおのみこと)

・稲田姫命(いなだひめのみこと)

・大己貴命(おおなむちのみこと)

須佐之男命は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)とともに伊邪那岐(いざなき)の禊から生まれた三貴子の一神で、ヤマタノオロチ退治など力強い神として知られています。ヤマタノオロチ退治で助けて夫婦となったのが、稲田姫命であり、その息子が大巳貴命です。出雲斐伊神社の由緒では、斐伊神社の分霊が当社へ祀られたとされていて、斐伊神社は斐伊川の側にある須佐之男を祀る神社です。

社殿・宝物等

神社は大宮公園にあり、その境内は約3万坪と広大です。参道の長さはさいたま新都心駅付近、中山道の一の鳥居から約2kmあると言われ、一宮としては日本一長い参道と言われています。

県道2号線沿いの二の鳥居の高さは高さ13mで、現存する木造鳥居では関東で一番大きいとされています。

一般の参拝者(我々もそう)は大宮駅から二の鳥居に至り、そこから表参道を進みます。大宮駅からは徒歩15分程度の距離です。著者もこのルートで訪問し、下記の通り、参道を通りました。

三の鳥居をくぐると、境内に入ります。

三の鳥居から境内に入り、少し進むと神池という池があります。訪問当日は雨が少なかったのか、水がほぼありませんでした。

神池にかかる橋がその名の通り神橋です。ここは昔大きな沼があり、ここに龍神が住んでいたとされているそうです。

毎年8月2日に行われる神幸祭では本殿で御神霊を神輿に遷して、神池の水で清められた神橋に奉安する橋上祭が行われるほど、ここは強いパワーを示していると言われています。龍神伝説とスサノオ信仰が融合したのが氷川信仰だとも言われているほどです。

神橋をわたると鮮やかな朱色の楼門が見えてきます。これは1940年造営ですが、とてもきれいな橋でした。

楼門を抜けるとまず目に飛び込んでくるのが、舞殿です。ちなみに、よく神社にある神楽殿かと思いきや、神楽殿は別に三の鳥居右側にあるそうです。

舞殿は横からもかっこいいです。

拝殿周辺には派手な朱色の廻廊が楼門から続いています。

こちらが拝殿です。澄んだ空と、控えめな拝殿がとても美しかったです。香取神宮もそうでしたが、鮮やかな楼門に対して、落ち着いた拝殿・本殿というのが一宮には多い気がします。

拝殿右側には力石と歯固め石と呼ばれる石があります。力石は、かつて力自慢の力士たちがこの石を担いで社殿の周りを歩いたとされる大石で、四拾伍貫と記載のあるものもあり、約169kgとのこと。。。

歯固め石とは赤ちゃんのお食い初めのときに、石のように固い歯になるようにと願いを込めて使われる石であり、ここで赤ちゃんが初宮参りをしたときに、この歯固め石を使うそうです。

ご利益

夫婦神として縁結びや安産、愛情運のご利益があるとされ、息子である大巳貴命は大国主命とも呼ばれ商売繁盛や仕事運のご利益を授けると言われています。

御朱印

御朱印の初穂料は500円。

周辺情報

二の鳥居を過ぎたところでちゃんおれはお腹が減り、近くのカフェに入りました。

なお、参道周辺にはあまり食事処がなく、食事は事前に済ませておく、または参拝後がおすすめです。

武蔵国一宮をめぐって

※下記少しマニアックでもあるので、興味のない方は読み飛ばし、最後のちゃんおれメモをお読みください。

前述の通り、武蔵国一宮を小野神社とする説もありますが、果たしてどちらが一宮か?を少し考察します。ここは当ブログのテーマである、”なぜ神社、一宮が存在しているのか?”についても関係するような気がしています。

現在の知名度からすれば氷川神社は文句なしの武蔵国一宮であるといえそうです。一方、756年の太政官符には小野神社の名はあるものの氷川神社はなく、逆に972年の『延喜式』では氷川神社は最高位の名神大社に位置づけられつつ小野神社は小社にとどまっています。背景には、武蔵国で生まれた丈部直不破麻呂が、氷川神社の祭祀権を獲得すると同時に中央でも活躍し、朝廷に対する働きかけが功を奏したことがあると言われています。そして『続日本紀』には同時期、不破麻呂が活躍した記事が載せられている。

しかし地元では小野神社を一宮とする意見が強く、中世の長い間にわたって、小野神社が一宮、小河神社が二宮、氷川神社は三宮とされてきた、つまり中央と地元で認識のずれが生じています。

当ブログでは、これまで仮説として、「一宮の存在意義は、知名度ではなく、住民の生活に根ざした相対的なものである」という考察をしてきました。ここから考えると不破麻呂の時代より、すでに地域に”根ざしていた”(≒政治的ではない)のは小野神社と言えるような気がします。

が、下記に各歴史的根拠を列挙して比較してみました。

①鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』:小野神社に関して、”多磨群吉富に一宮”の記述

②平安中期の『延喜式神名帳』:”武蔵国足立郡 氷川神社 名神大社 月次新嘗”と記載され、氷川神社=名神大社(古来より霊験あらたかとされる有名な神社)とさ記載。小野神社=小社 ※一方これは一宮を判断する材料にはならず、あくまで名神大社である

③平安時代前期の『日本三代実録』:武蔵国氷川神の名で神階授与の記載

④南北朝時代編纂された『神道集』:武蔵国一宮から六宮までを”武州六大明神”として祀っており、公式に一宮を小野神社、三宮を氷川神社としている。

⑤武蔵国総社である大國魂神社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭):『神道集』に基づき、氷川神社の神官が三宮として参っている。当文献によれば、一宮が小野神社、二宮は小河神社(現在の二宮神社:東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(大宮)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金讚神社(埼玉県児玉郡)、六宮が杉山神社(神奈川県横浜市)となる。なお、総社は一宮に似た制度。中央から地方に派遣された国司が最初の仕事として国内の各地をまわって神々を参拝するにあたり、一宮は最初に参拝すべき神社とされるが、各地に行くのは面倒なので、神々を一カ所に集めてしまうという、いわば〝手抜き〟の制度が総社。武蔵の総社は、東京都府中市にある大国魂神社であり、府中という地名は現在の県庁にあたる国府の敷地の中にあったことを意味している。

考察

神社の格式、由緒、(権力?)という点では氷川神社にも力はあると思われますが、客観的に文献を探る限り”一宮”としての軍配は小野神社に上がりそうです。

一方、総社である大國魂神社の規模も小野神社とは対照的で、役所のトップである国司が近くに住まず参拝に来なければ一宮であっても相対的に地位が低下してしまうのも無理がないのではないかと思われます。加えて、大宮に政治的に力が加わる中で氷川神社が力をつけ、一宮の相対性が揺らいできているというのが実際に思えてきます。

当ブログの仮説として地域に根ざすことが一宮であるとすれば、現代において一宮がどちらかを厳格に議論することにそれほど意義はない、つまり武蔵国一宮が2つ(氷川女體神社も入れれれば3つ)あっても良いのでは?と考えるに至りました。

端的に、その地域において人々が思いを寄せ、信仰しているのであれば(かつある程度歴史的根拠があれば)それは一宮として良いのでは?と思ってなりません。

ちゃんおれメモ

参道にお店があまりなくて、お腹が減った。ガオ

僕のお気に入りは舞殿に腰掛けながら、拝殿と空を眺める、だ。ガオ

結婚式なども行っていて、はやり有名な神社なだけあるなと思った。

ちなみに、この手の話は当ブログではあまり書きたくないけど(僕は論理的思考しか実は受け付けないが。。。ガオ)、江原啓之さんが宗像神社にて幽体離脱を体験、その後須佐之男命が守護神となり除霊できるようになったという説もこの氷川神社にはあるんだ。ガオ。この時とぐろを巻いていた龍が、この地の神池にいて、ここにかかるのが神橋といわれている。

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