武蔵国一宮 (女体社) 氷川女體神社(ひかわにょたいじんじゃ)

埼玉県さいたま市に鎮座する、武蔵国一宮氷川女體神社(ひかわにょたいじんじゃ)は、埼玉県さいたま市緑区にある神社。全国一の宮会加盟社。旧社格は郷社。武蔵国の一宮といえば、氷川神社と思う方が多いと思いますが、実は、氷川女體神社は氷川神社の対になる存在で、ともに一宮とされています。

目次

歴史

社伝によれば、崇神天皇の御代(2000年ほど前)に出雲杵築(出雲大社)の勧請をしたと記載がありますが、実際は奈良時代(710〜794)の建立のようです。中世以降、武門の崇敬を集めたゆえ、これらにゆかりのある宝物も多く、実際に徳川家より社領50石を寄進され、綱吉により現存する社殿も建立されています。古代から御船遊(みふねあそび)神事が行われており、遺跡が現存しています(後述)。

御祭神

・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと):須佐之男命の妻で主祭神
・大己貴命(おおなむちのみこと)
・三穂津姫命(みほつひめのみこと)

大宮の氷川神社(主祭神:須佐之男命)が「男体社」とされ、その妻を祀る当社は「女体社」に位置づけられています。奇稲田姫命は有名なヤマタノオロチの神話にて須佐之男命が助け、結婚した神です。大己貴命は大国主(おおくにぬし)の別名で「出雲大社」に祀られている神として知らる須佐之男命と稲田姫命の間に生まれた息子であり、大黒様と習合し崇敬を集めている神です。

社殿等

神社の前に架かっているこちらの赤い橋は、氷川女體橋といいます。

氷川女體橋の向かいに見えるこの階段を登ると下記のような鳥居が見え、境内に入ります。アクセスの良い場所ではありませんが、境内、その周辺含め、地元の方々が遊びに、またランニングに訪れており、地域に根ざした一宮だと感じさせます。

境内には大きな木がたくさんあり、神社としての規模は小さいながらも鎮守の森の荘厳な雰囲気を感じることができ、空気が澄んでいます。紅葉の終わりの時期でしたが、とてもきれいでした。


現在の社殿は、寛文7年(1667)5代将軍徳川家綱により建立されたものです。決して規模の大きい社殿ではありませんが、一宮ならではの厳かな雰囲気があります。

拝殿の後ろにあるのが本殿です(ほとんどの神社はこうなっています)。今回は神社の構造に焦点をあててみます。

以下の写真から、鰹木(屋根の上に地面と水平に乗っている丸い棒状の木)が4本乗っているのが分かります。

一般的に祭神の性別が男であれば鰹木の数は偶数、女であれば奇数となっているそうです。これまでなんとなく神社を見ていましたが、これを知っておくと視点が広がります。

社殿を右の方に進んでいくと下のような道に入り、その先に竜神社という神社があります。

こちらの神社には、”見沼”の竜伝説にちなんだ竜神が鎮座しています。見沼は現在のさいたま市と川口市にまたがる大きな沼であり、かつては“御沼”とされ、竜神が棲んでいたという伝説があります。

14世紀頃から、見沼の主である竜神さまをお祀りする祭祀である御船祭(みふねまつりが行われてきたと推定されていますが、祭りを執り行っていたのが氷川女體神社です。見沼の一番深いところに神輿を乗せた船を繰り出し、沼の主の竜神を祀ったという御船祭ですが、享保十二年(1727)に徳川吉宗公の政策によって見沼は開拓されてしまい、見沼田んぼとなります。長年続けてきた御船祭ができなくなったことを徳川幕府に伝えると、神社の前にまるで手鏡のように見沼の水を残し、中央に土壇場という出島をつくりお祭りの場を残してくれたと言われています。見沼の竜神さまは開拓とともに天に昇り、いまでもこの辺りを見守いるとされます。

なお、徒歩数分の場所に、竜神さまをお祀りする祭祀が行われていた遺跡が復元されています。下記写真の通り、氷川女體橋の境内とは反対側にその遺跡はあります。

氷川女體神社磐船祭祭祀(いわふねまつりさいし)遺跡という名前です。このような沼地がずっと続いています。

かつて御船祭(みふねまつり)が行われていましたが、上記の通り見沼の開拓により当祭ができなくなり、代わりの祭礼である磐船祭が行われるようになりました。見沼の竜神は、見沼たんぼの干拓で天に昇り空からこの地を見守っていますが、時々、遺跡周りの沼に鯉の姿となって泳いでいるという言い伝えもあります。

境内にはご神木もあります。2013年6月に『ナニコレ珍百景』で放映されたそうです。このご神木にあるコブが、まるで熊の顔のように見え、しかも微笑んでいます!一説には、神という言葉は熊と語源を同じにしています。神さまは見えない存在、熊は冬の間、冬眠し見えなくなるということで、”見えない”ことに共通点があるそう。神様が御神木にて熊の形を借りて出てきているのでしょうか。

ちなみに、境内には力石もあり、江戸時代に村の若者達が力試しに盛んに持ち上げたとされる石があります。ここからも、地域に根ざした一宮の姿が想像されます。

宝物等

一般公開していないそうですが、所蔵する文化財が多く「埼玉の正倉院」とも呼ばれています。

重要美術品(国認定のもののみ記載):

・三鱗文兵庫鎖太刀 1口 – 昭和23年4月27日認定
・埼玉県指定有形文化財
・三鱗文兵庫鎖太刀 1口(工芸品) – 昭和47年3月28日指定(国の重要美術品認定のものと同じ)
・氷川女体神社神輿 1基(工芸品) – 昭和47年3月28日指定
・牡丹文瓶子 一対(2口)(工芸品) – 昭和48年3月9日指定。東京国立博物館に寄託
・紙本墨書大般若波羅蜜多経 539巻(典籍) – 昭和47年3月28日指定
・氷川女体神社社殿 1棟(建造物) – 昭和51年3月30日指定

ご利益

女神である御祭神から、恋愛成就、良縁祈願、子孫繁栄などなど、女性の願いを叶えてくれたり、ハッピーを後押ししてくれたりするご利益があると言われています。

社務所には願いを叶えてくれる巫女人形があり、全国で唯一の巫女人形として知られています。巫女人形を使って願いごとをすると、巫女人形が大神さまにその願いを届けてくれるそうです。願いが叶ったら着物を着せてお参りするそうで、神社にはたくさんの着物を着た巫女人形が置かれていました。

御朱印

”女體”の表現をめぐって&ちゃんおれブログとの共通点

氷川女體神社の”女體”は、御祭神である稲田姫命(いなだひめのみこと)に由来しており、この神は、日本書紀にて、須佐之男命がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされています。一説には、当社(女體社)と、大宮区高鼻町にある大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)、見沼区中川にある中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて、武蔵国一宮と称されていたとも伝えられています。つまり、父:須佐之男命、母:奇稲田姫、息子:大己貴命を祀ることで合わせ一宮として称されていた。実際に三社は一直線上に配置されており、氷川女體神社の拝殿には、武蔵国一宮の記載があります。

詳細を言えば、前述の通り享保の改革で新田開発が奨励されたため、見沼は田んぼへと変化していきました。氷川神社と氷川女體神社のほぼ中間にあり、見沼を挟んで鎮座していた中山神社は大己貴命(スサノオとイナダヒメの子)を祀っています。つまり昔の広大な見沼のまわりに鎮座する男體社・女體社・王子社は夫婦・親子という関係になります。これを裏付けるように、元の見沼付近に位置する当社と氷川神社、中山神社は直線上にあり、太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置となっていると思われ、3社で一体の氷川神社を形成して見沼を神の池である”御沼”として広大な神域を有していた。

また、江戸時代に橘三喜がここから巡拝を始めたという一の宮巡り発祥の地であるとされています。橘三喜は江戸時代の1675年から23年間をかけて、初めて日本全国の一宮をめぐった松浦藩の神道家です。彼は37歳の時、徳川将軍家の後ろ盾で再興したばかりの氷川女體神社の境内で宮司の武笠豊雄に会い、彼との熱のこもった議論の中から、「全国に鎮座する一宮の存在意義」について思考を巡らせ、それまで漠然と考えていた一宮巡詣を行動に移す契機となったとされています。彼の著した『一宮巡詣記』は、多くの後進に影響を与えたという。つまり、このブログの先輩です。江戸時代にも管理人と同じ思考疑問を持って一宮巡りを行った人物がいたと知り感激しました。

なお、別に小野神社も武蔵国一宮とされており、これは氷川神社との間で一宮論争があります。

ちゃんおれメモ

一宮論争は氷川神社に限らず、いろいろあるがやはり、神社の大きさ、由緒に関係なく、その地に根付いていれば一宮という相対的な存在なのでは?と思う。

神社には駐車場がなく、ちょっと遠いですが公園の見沼氷川公園に停めるんだ。ガオ

おみくじが日本の神話の神々に基づいたものであり、おもしろかった。ガオ

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