日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は栃木県の霊峰、日光三山を神体山として祀る神社で、日光東照宮に隣接する神社です。
ちなみに ”日光” という地名は、二荒山を “にっこう” と音読みしたことに由来するとする説もあるようで、歴史的にこの地域に根ざした神社(山)といえます。
日光三山とは、男体山(なんたいさん:古名が二荒山)、女峰山(にょほうさん)、太郎山のことを指し、日光二荒山神社ではそれぞれに神を個別にあててお祀りしています。つまり、周辺の山々その神域であり、ここには華厳の滝やいろは坂、中禅寺湖も含まれ、面積は3400haと伊勢神宮に次ぐ規模です。
こうした広大なエリアということで境内も3種類あります。本社は東照宮に隣接するもので、一般に二荒山神社といえばここを指します。管理人、おれおちゃん一行もここを参拝しました。他に中宮祠(ちゅうぐうし)は中禅寺湖の湖畔、男体山の登山口に、そして奥宮は男体山の山頂に鎮座しています。
日光エリアの昔の名前は下野(しもつけ)国ですが、このエリアでは、複数の神社が一宮を名乗る、一宮論争が存在しています。詳細は後述(ちゃんおれ’s EYE)しますが、他にも一宮論争はいくつかのエリアに存在しており、例えば氷川神社や氷川女體神社、小野神社の3社が一宮を名乗っている武蔵国があるなど、当ブログの大テーマを研究する上で非常に重要な神社の1つでもあると思われます。
歴史
766年に下野国の勝道上人が山岳修行の地を求めて、山麓に社殿(今の本宮神社)を造営して二荒山大神を祀ったのが創始とされています。山にまつわる神社仏閣が修験道の修行地として神格化していくことはよくあるパターンです。
当社は850年に今の東照宮の地に、さらに1215年に現在地に遷座したとされています。
太郎山神社周辺で古代の祭祀の遺跡が見つかっており、実際には史実に残る時期よりもっと古くから信仰の地と位置づけられていたと考えられています。
起源に関しては、808年に宇都宮二荒山神社の本宮から奉遷したする別の説もあります。ただし、この説通りだと、宇都宮二荒山神社の御祭神である豊城入彦命が日光二荒山神社でもお祀りされているはずですが、二荒山大神は後述の通り大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命(出雲系の親子三神)の総称であり、この創始説は信憑性が高くはないでしょう。
平安時代の正統な歴史書である延喜式神名帳には名神大社として「下野国河内郡二荒山神社」の記述がありますが、これは、後述の通り下野国のどちらの一宮を指すのか明示されていないことが、上記の別説と合わせて一宮論争を生み出す原因にもなっています(後述)
江戸時代になって天台宗僧の天海により家康を祀る東照社(現在の日光東照宮)が幕府により創建されると、二荒山神社もまた幕府だけでなく朝廷や大名、民衆からも崇拝を受けるようになったようです。当社が重要性を増したのは間違いなくこの時期であり、それは東照宮の権威性とセットになった部分があり、実際に現在世界遺産に指定されている社殿は江戸時代の造営です。
1873年に宇都宮の二荒山神社に代わって国幣中社に追加され、戦後に神社本庁の別表神社となった経緯を持ちます。
御祭神
御祭神は以下の三柱です。
- 大己貴命(おおなむちのみこと)→いわゆる大黒様として有名な神
- 田心姫命(たごりひめのみこと)→大巳貴命の妻
- 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)→息子
それぞれに男体山(二荒山)、女峰山、太郎山があてられて神格化されているのですが、こうした山のことを神体山と呼び、山に神威を見出すことを神奈備と呼びます。
日光三山に人格神があてられたのは12世紀ごろとされており、いわゆる本地垂迹説により仏教の仏もそれぞれに割り当てられています。なお、世界遺産の日光の社寺に登録される輪王寺では現在もこれら諸仏を祀っており、もともとは一体だったも信仰が歴史を経て神社と寺で分かれた経緯がここに見えます。
社殿・宝物等
冒頭で述べたとおり、広大なエリアを神域としてもつ神社です。華厳の滝やいろは坂なども境内に入ることになりますが、社殿としては大きく本社(管理人とちゃんおれ一行が訪問)、中宮祠、奥宮の3エリアに分かれます。
なお、中宮祠と奥宮には参拝できていないので写真はありません。今後訪問した段階で写真や面白いポイントを付け加えていくことにします。
本社
本殿は八棟造(リンク)で、日光の社寺の中で最古のものとされています。具体的には1617年の東照宮造営の際して現在地に移転した際に社殿も現在のものとして造営されています。本殿や拝殿(入母屋造:リンク)を始めとして11の建造物が国の重要文化財に指定されています。
本社の入り口はこんな感じ。
こちらから入ると、この神門があり、拝殿へと向かいます。
日光二荒山神社は入る方角によって鳥居が異なります。東照宮側からは鳥居はなく、このような参道があり、その先に楼門があります。
同じ参道ですが、冬と春で雰囲気がとても異なります。
参道の先にはこの楼門があります。
ちゃんおれのおすすめは東照宮側から入ること。
参道が長くて厳かな雰囲気があり、入る前に気持ちがきれいに整理されていくような感じがします(特に雪の積もる冬)。
楼門を抜けると、御祭神(大黒様)にちなんで、因幡の白兎のやつが。
その先には唐銅(とうどう)鳥居という鳥居があります。
手水舎はこんな感じ
御札授与所のそばには親子杉という3本の杉があります。
夫婦杉(ペア)のある神社は多いですが、子どもを含む3本杉はなかなかレアです。もちろん家庭円満の象徴です。
こちらが拝殿
神楽殿にはなんと獅子(ライオン)の狛犬が待機している。ガオ
中宮祠
男体山中腹の中禅寺湖畔にある社殿です。中宮祠とはあまり目にしない表現ですが、本社と奥宮の間の中間の祠(ほこら)という意味です。
勝道上人による782年の男体山登頂後に建立されたそうで、現在の社殿は1699年に造営されたものです。古くから男体山登山口となっており、現在も登山口が本殿横にあります。
中宮祠の境内には「幸運の杜」と呼ばれる御神木が何本も祀られているそうです。”まっすぐ杉”、”悩みカラ松”、”桂の木”、”良縁を結ぶ神笹”など面白い、珍しい御神木があります。
また、幸運の杜には”カワラケ割り”ができます。白いお皿に厄(またはストレスや嫌なこと)を書いて投げ割るものです。
※カワラケ=”土器”のこと
奥宮
男体山山頂に位置する社殿で、勝道上人によって782年に創建されました。
奥宮付近にある太郎山神社周辺からは奈良時代から近世の祭祀遺跡が出土していることからこの一帯が男体山山頂遺跡とされています。
ご利益
御祭神別に以下のようなご利益があるとされています。
大巳貴命 → 家内安全、商売繁盛、開運
田心姫命 → 子授け、安産、子育て
味耜高彦根命 → 農業や漁業、交通安全
御朱印
この神社ではたくさんの種類の御朱印がもらえます。
もちろん管理人は右上のオーソドックスなものをいただきました。
御朱印はこの受付所でいただけます。
周辺情報
神橋
参道の日光山内への入り口には、大谷川(だいやがわ)に架かる神橋(しんきょう)があります。この神橋は「日本三奇橋」の1つに数えられる見どころの1つです。
何が奇矯か?というと、「乳の木」と呼ばれる大木を両岸の土の中に埋め込んで、斜め上向きに突き出すようにして、その両端に橋桁を渡して橋にしている構造ことを指しているようです。重要文化財に指定されている木造の橋としてはこの橋以外に見られない構造のようです。
華厳の滝
冬の時期に行くと結構な確率で凍っています。迫力満点です。
中禅寺湖
中禅寺湖はこんな感じです。華厳の滝から中禅寺湖にかけてはかなり寒くなります。
東京から向かいましたが、平地の気温感覚で行くと本当に公開するので気をつけましょう。
いろは坂
いろは坂は、日光東照宮、日光二荒山神社から華厳の滝や中禅寺湖に行く道中にある山道のことです。
夜になると飛ばし屋?の聖地としてブンブン言わせる感じのエリアということなのでご注意ください。
写真の通り曲がりくねった山道ですが景色がとても綺麗でした。酔いやすい人は一瞬で酔うので、安全運転と酔止め必須です。
ちなみにいろは坂という名前は、すべてのカーブに”いろはにほへと”の文字が割り振られているからです。
ちゃんおれメモ
”ちゃんおれがゆく”の方針として、表記は神社の公式表記を踏襲していくことにする。日光二荒山神社では日本書紀の記述に従っているようで、御祭神のところにはその記述で記載している
※古事記であれば大己貴命は国造りを行った大国主(おおくにぬし)であり、大黒様とも呼ばれ幸運を招く神として親しまれてきた神さまとされている。
※ちなみに僕は荒ぶる魂を持つ力強い神になっていく運命にあるライオンだ。ガオ
本社にある銅灯籠(国の重要文化財)は化灯籠(ばけとうろう)と呼ばれている。これは火を灯すと怪しげな姿に化けたとされて、それに恐れた武士が刀で切りつけていたことに由来しているようで、実際に武士が刀で切りつけた傷が無数に残っている。僕にガブッと噛まれたら化灯籠はひとたまりもないだろう。ガオ
歴史のある神社に間違いはないけど、電子マネーでのお賽銭(中国人観光客向けがメイン)やパワースポット押しなど結構現代風、観光客路線の部分もあって、個人的にはギラギラさせずにシンプルにまとめてほしいと思ったんだ。ガオ
ちゃんおれ’s EYE:下野国一宮論争
下野国一宮とされる神社は日光二荒山神社の他に、栃木県宇都宮市にある宇都宮二荒山神社は訓読みで「うつのみやふたあらやまじんじゃ」と読む神社が存在している。武蔵国と異なり、こちらは共に ”二荒山神社” と漢字を同じくしており、読み方が異なるという複雑な状況があるんだ。
平安時代の法律書である ”延喜式” は国ごとに神社の序列を定めており、その中で各国内の最高位にランク付けられた「名神」記載される神社の多くが一の宮となっていることが多い。延喜式において、下野の名神大社は「河内郡二荒山神社」とされており、これが日光・宇都宮のどちらを指すのかが明確にならない原因だ。ガオ
歴史的に見れば旧河内郡は宇都宮市を含む地域で、日光市は旧都賀郡に属しており、この二荒山神社が宇都宮を指すことは明白。この点で宇都宮に軍配が上がる気がする。
一方で、明治時代になって宇都宮の二荒山神社が国幣中社にランク付けされると、日光側の抗議によって今度は日光が国幣中社となり、宇都宮は県社に降格している背景もある。そして今度は宇都宮側が訴えて同じ国幣中社になったという経緯があり、明治期の国家体制移行により”政治的に”一宮論争が複雑化した経緯があると思われる。ガオ
また、「二荒山」という社名からみて、神体山である二荒山(男体山)に近いのは日光なので、日光二荒山神社を一宮とする説もあるが、日光が一般にも有名になったのは、徳川家が二荒山神社の社地に東照宮を建ててからという説に一定の説得力があるため、下野国一宮としての正統性はもしかすると宇都宮が優位な気もする。ガオ
ちなみに、武蔵国一宮をめぐる、小野神社 vs 氷川神社も同じような論争があり、当ブログの本質である “なぜ一宮が信仰されるのか?” に関係のある論争のようにもちゃんおれとしては思っている。つまり、一宮=人々の生活、歴史、文化と言って問題なく、一宮は人間との関係において相対的、可変的なものであったのでは?ということだ。ガオ
したがって歴史や政治に振り回されたという側面もある。だとすると主張する神社が(その説を信じる周辺の人々がいる限り)どれも一宮であると捉えて紹介していくことが当ブログのミッションになるのではないかと思った。やはり生活に密着した信仰が一宮を形成した、つまり一宮は制度的なものというより、概念的なものなのではと思う。ガオ
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